今よりももっと深く、この寺が雪に埋もれていたとき、一人の細身の男が尋ねて来たことがあった。珍しいことだと用件を聞くと、国を惑わす妖怪め、と言う。次の瞬間には耳を失っていた。溢れ出す血と削げ落ちてしまった耳にうろたえると、もう片方にも鋭い痛みがあった。その男は血で汚れた刀を雪で満足そうに洗い、一京を見下ろしてべったりと笑う。僕に逆らうからだとつばを吐き捨てるように言って、男はそのまま元の場所へと帰っていく。
 どろどろになった生臭い雪の中、後には両耳を押さえている一京だけがいて、痛みと熱と、雪の冷たさでどうにかなってしまいそうだった。




 目を開くと、寺の奥にある小さな板の間にいた。外にいたはずなのに、家の中まで運ばれた上、丁寧に蒲団までかけられている。外の雪はいよいよ強く、こんな所へ来る医者もいなければ、行く足さえも無い。それでも運良く、来てくれた誰かのおかげで、なんだか台所から良いにおいまでする。耳を触ってみると包帯のざらざらした感じはあったが、何の出っ張りもない。
 善良な坊主として今まで生きてきたのだ。出会いざまにいきなり斬りかかってくるような知り合いはいない。誰かから恨まれるようなこともしていないはずだ、たぶん。
 そうやって起き上がってぼんやりしていると、今まで世話をしてくれていたのか、紫が一京!と叫んだ。あわてたように紫は盆を持ってぱたぱたと走り寄り、思わず一京をぎゅっとする。ありがとうと言うつもりだったのに、いつもは気丈な彼女が泣きそうな声を出すものだから思わず黙ってしまう。
「驚いたんだよ、しばらく雪が止みそうにないから、食べるものを届けないとって、うちを出て、ここに来たら、そうしたら、」
 ふんわりとした香水の匂いときつく抱きしめてくる腕はしばらく離れそうにない。なだめようにも今度は顔が彼女のふくよかな胸に埋もれて声が出せない。しばらくはなすがままだったが、いよいよ抱きしめる紫の腕の力が強くなり、一京が耳を押しつぶされて痛みにうめくとやっと開放された。
 両耳にあてられた厚い布にはもう表面まで血が滲んでいたらしく、紫の胸元はうっすらと汚れてしまっていた。当の本人は気にしない風だが一京にとってはそうもいかない。謝ると、じゃあ布をおくれよと言う。熱して細くしたものを包帯にするのだと言って、看病してからずっと泣きそうだった彼女はやっと笑顔を見せた。




 包帯を巻こうという紫の申し出に一京が断るはずもない。自分では出来ないし、何より、助けてくれるというのだからこれ以上なくありがたいことだと一京は三つ指をそろえて礼に伏す。耳の痛みはまだ引かないが、頭を覆った包帯は冷ややかな空気を傷口から柔らかく遮断した。
 きちんと正座している一京に、良い男だったのに、もったいない、尼僧みたいだと紫は口惜しそうに言った。














紫さん狙ってるみたいになった




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